浮世絵入門:代表作・有名絵師・作品ジャンルなど徹底解説

浮世絵とは何か?概要

浮世絵は、日本の江戸時代の初期から明治の初年にかけての約200年間、江戸の町人文化の一環として大ブームを巻き起こした絵画芸術です。

木版画または肉筆によって描かれた浮世絵は、江戸の人々にとって現実的な主題を扱い、役者絵や美人画、名所絵など様々なジャンルの作品が制作されました。木版画による大量生産により、安く購入できる手ごろな芸術だった浮世絵は、庶民にとっての情報源の役目も果たしました。

江戸では多くの浮世絵師たちが活躍しました。時代の先端をいく浮世絵師たちは、江戸の風俗や文化に敏感で、最新の技法やデザインを次々に浮世絵に取り込みました。

浮世絵の作品ジャンル

東洲斎写楽、喜多川歌麿、歌川広重の浮世絵
東洲斎写楽、喜多川歌麿、歌川広重の浮世絵

さまざまなジャンルの作品が制作された浮世絵の世界。一般的に知られている浮世絵のジャンルには以下のようなものがあります。

まず、浮世絵の3大ジャンルとして「役者絵」「美人画」「風景画」が挙げられます。

役者絵は、江戸時代の浮世絵の中でも最も人気のあるジャンルで、人気歌舞伎役者の名前入りの浮世絵が広く流通しました。今でいうタレントのプロマイド的な役割も果たしています。

美人画は、江戸時代の浮世絵の中で2番目に人気がありました。女性を題材にした浮世絵は、過酷な人生を送った遊女たちから庶民の女性までさまざまな立場の女性が描かれています。

風景画は、当時の江戸の風俗や文化、有名スポットなどを題材にしたほか、人々が旅行に憧れを抱くような名所絵シリーズも人気がありました。

浮世絵には、このほかにも「武者絵」「相撲絵」「花鳥画」「幽霊画」「戯画」「春画」などのジャンルがあり、それぞれ有名な浮世絵師が腕を競いました。

浮世絵木版画の制作方法

浮世絵には、一般的に皆様が思い浮かべる木版画の印刷物「浮世絵木版画」と画家が筆で直に描いた「肉筆浮世絵」があります。

浮世絵が庶民に広く親しまれた理由としては、木版画技術の影響が大きかったといえるでしょう。木版画で制作する浮世絵は、大量生産することができ、庶民でも買い求めやすい安価な価格設定が可能だからです。

浮世絵木版画は、木版画による多色刷りで制作されています。

浮世絵は、浮世絵師が描いた下絵をもとに、彫師が何枚かの版木に絵柄を分けて彫り、摺師と呼ばれる職人が版木に墨や顔料を塗って、和紙に色を刷り重ねて制作します。

江戸時代は木版画の技術が発達しており、浮世絵を印刷することができる版元がたくさんありました。

有名な浮世絵師と浮世絵の代表作

菱川師宣「見返り美人図」

菱川師宣「見返り美人図」
菱川師宣「見返り美人図」

「浮世絵の祖」と呼ばれる菱川師宣(1618年-1694年)は、版本の挿絵の仕事で頭角を現すと、版本の挿絵を一枚絵として売り出すようになります。墨摺りに手彩色を施した菱川師宣は版画を浮世絵として確立させました。菱川師宣の代表作に肉筆の浮世絵「見返り美人図」があります。

鈴木春信「雪中相合傘」

鈴木春信「雪中相合傘」
鈴木春信「雪中相合傘」

菱川師宣が「浮世絵の祖」であるならば、鈴木春信(1725年-1770年)は「錦絵の祖」といえます。菱川師宣の浮世絵から100年ほど経つと、浮世絵の技術も進化し、多色刷りが一般的になりました。鈴木春信は現在のカレンダーにあたる絵暦を制作したほか、「錦絵」と呼ばれる多色刷り木版画の完成形を生み出しました。鈴木春信の代表作に「雪中相合傘」があります。

喜多川歌麿「ポッピンを吹く女」

喜多川歌麿「ポッピンを吹く女」
喜多川歌麿「ポッピンを吹く女」

江戸時代中期、江戸の庶民の暮らしや一般女性を描いて人気を博したのが喜多川歌麿(1753年-1806年)です。喜多川歌麿が描く美人画は、女性の上半身を描く「大首絵」がメインで、大ヒットとなりました。喜多川歌麿の代表作に「ポッピンを吹く女」があります。

東洲斎写楽「三代目大谷鬼次の江戸兵衛」

東洲斎写楽「三代目大谷鬼次の江戸兵衛」
東洲斎写楽「三代目大谷鬼次の江戸兵衛」

東洲斎写楽は、突如現れた無名の浮世絵師で、28点の大首絵を残し、姿を消しました。美しく、かっこよく描かれることが当然だった役者絵の世界で、リアルな描写、リアルを超えた描写を感じさせる写楽の役者絵は賛否両論を呼びました。写楽の代表作に「三代目大谷鬼次の江戸兵衛」があります。

葛飾北斎「冨嶽三十六景」

葛飾北斎「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」
葛飾北斎「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」

葛飾北斎(1760年-1849年)は、常に新しいことを求め続けたバイタリティのある浮世絵師で、名所絵、漫画、幽霊画、春画、肉筆画など、さまざまなジャンルの浮世絵を手がけました。葛飾北斎の代表作に「冨嶽三十六景」などがあります。

歌川広重「東海道五十三次」

歌川広重「東海道五十三次」より
歌川広重「東海道五十三次」より

歌川広重(1797年-1858年)は、葛飾北斎のライバルともいわれ、北斎とともに名所絵シリーズで名を馳せた浮世絵師です。情緒的で簡潔な線が生み出す広重の浮世絵は、庶民の旅行への憧れをかきたて、大ヒットとなりました。歌川広重の代表作に「東海道五十三次」などがあります。

歌川国芳「相馬の古内裏」

歌川国芳「相馬の古内裏」
歌川国芳「相馬の古内裏」

歌川国芳(1798年-1861年)は、三枚絵の役者絵で知られる浮世絵師です。武者絵シリーズで売れっ子になった国芳は、寄せ絵と呼ばれる戯画など、遊び心のある奇抜な浮世絵も制作しました。歌川国芳の代表作に「相馬の古内裏」などがあります。

浮世絵の魅力とは?

多色刷りによる鮮やかな色彩の浮世絵

歌川広重「東海道五十三次 箱根 湖水図」
歌川広重「東海道五十三次 箱根 湖水図」

木版画が発達していた江戸時代、優秀な彫師と摺師により鮮やかな色彩で印刷された浮世絵が多数制作されました。写真がなかった時代、「ヒロシゲブルー」と呼ばれる歌川広重作品の藍色などの色鮮やかな浮世絵は、庶民を夢中にさせました。

浮世絵の画風と芸術性の向上

葛飾北斎と歌川広重による名所絵シリーズ
葛飾北斎と歌川広重による名所絵シリーズ

浮世絵が庶民のあいだに広く普及するに伴い、浮世絵師それぞれが独自の画風や新しい技術を積極的に取り入れ、切磋琢磨するようになっていきます。浮世絵の芸術性は飛躍的に向上し、浮世絵は武士など階級が高い人々からも評価を受けるようになりました。

階級の垣根を越えて愛された浮世絵は、江戸特産の手ごろな美術品として地方への土産物にも使われ、日本全国の人々にも存在が知られるようになっていきます。

庶民に密着した題材の浮世絵

葛飾北斎「富嶽三十六景 駿州江㞍」
葛飾北斎「富嶽三十六景 駿州江㞍」

独自の風俗や文化が花開き、豊かな暮らしが楽しめた江戸時代。人々の暮らしが向上し、芸術や娯楽への関心が高まっていたことから、浮世絵にも人々の暮らしや行事・文化を題材にする作品が多くありました。また、葛飾北斎や歌川広重などが手がけた名所絵シリーズは、実際にはいくことができない遠くの地への旅行を庶民が夢見るポスター的な役割も果たしました。

浮世絵の歴史と変遷

初期(17世紀初頭~17世紀中頃)

浮世絵の起源は17世紀初頭。旅役者や歌舞伎役者の宣伝に木版画による役者絵が用いられていたことが始まりです。写真のなかった時代、こうした役者絵はプロマイド的な役割を果たしました。

芸術的な動きとして、上流階級向けの土佐派や狩野派の作品だけでなく、庶民の風俗を題材にした作品も制作されるようになったことも、浮世絵の大きなムーブメントを生み出すきっかけになったといえるでしょう。

中期(17世紀中頃~18世紀末)

17世紀中頃には、浮世絵に美人画や風景画といったジャンルも登場し、浮世絵の普及が進みました。

18世紀に入ると、浮世絵のジャンルはさらに増加し、葛飾北斎や歌川広重、喜多川歌麿といったの浮世絵師が登場します。これら著名な浮世絵師が競い合い、浮世絵派独自の画風を確立していきました。

後期(19世紀初頭~19世紀末)

19世紀初頭になると、葛飾北斎や歌川広重など後世にも影響を与える巨匠が浮世絵界で活躍するようになります。

19世紀末になると、明治維新の影響もあり、日本国内での浮世絵人気は一気に縮小してしまいます。同じく19世紀末、フランスでは印象派の画家たちが浮世絵に注目し、ジャポニスムブームが起きました。

浮世絵が江戸の人々に与えたインパクト

流行や情報を発信した浮世絵

歌川国芳「源九郎狐」「すみだ川 花乃景」
歌川国芳「源九郎狐」「すみだ川 花乃景」

浮世絵は、庶民の流行に大きな影響を与えました。「役者絵」や「美人画」は、今でいうプロマイド的な役割やファッション雑誌の役割も果たしており、庶民にとって浮世絵は大切な情報源でした。浮世絵のなかに描かれる女性のファッションや髪型は当時の女性たちに多大な影響を与えました。

安価で文化向上に貢献した浮世絵

歌川国芳「宮本武蔵の鯨退治」
歌川国芳「宮本武蔵の鯨退治」

木版画により印刷された浮世絵は価格が安く、江戸の庶民にも十分手が届きました。さまざまなジャンルの浮世絵が普及したことにより、江戸の文化や社会には大きな影響があったと考えられます。江戸の人々は、浮世絵によって芸術鑑賞の楽しさを知り、芸術が生活に彩りを添えてくれることを身をもって体験しました。

浮世絵はいくらで売られていた?

浮世絵木版画が大量生産で安く売られたことにより、それまで一部の裕福な階級の人々しか楽しめなかった芸術が、広く庶民に普及していきます。では浮世絵は江戸の町で実際にいくらで売られていたのでしょうか。

江戸時代、一般的な大きさの浮世絵は1枚おおよそ16文~20文、大判の錦絵は20文~30文前後で取引されていたという記録があります。手間のかかる作品や著名な浮世絵師の作品には追加料金も設定されていました。

浮世絵は作品のジャンルによって価格設定が異なっており、最もマイナーなジャンルであった花鳥画が10文程度、最もメジャーだった役者絵に至っては20文~30文になるものもありました。

当時の庶民の暮らしを探ってみると、豆腐が1丁12文、蕎麦屋の蕎麦が1人前16文だったという記録があります。お蕎麦1杯と浮世絵1枚が大体同じ価格だったと考えられるでしょう。

浮世絵が江戸の庶民に広く愛された大きな理由には、庶民の暮らしぶりでも十分に手が届く安価な価格設定があったといえます。

浮世絵と江戸幕府の検閲

歌川国芳「荷宝蔵壁のむだ書」
歌川国芳「荷宝蔵壁のむだ書」

庶民の芸術や娯楽への関心の高さとともに広く普及した浮世絵。江戸のさまざまな風俗や文化を題材にした浮世絵のなかには、幕府への批判や皮肉が込められた作品もありました。

江戸幕府は、浮世絵の流通を認めつつも、浮世絵をきっかけに江戸の風紀が乱れたり、幕府批判が広がることのないよう、浮世絵の検閲を行いました。主に検閲の対象となった作品は、春画や幕府の権威を傷つける浮世絵です。検閲が行われた作品には、改印という幕府の検閲済みの証である印が摺られました。

検閲により浮世絵の表現に規制がかかったことで、性的な描写や幕府批判を題材にした浮世絵は姿を消していきます。しかし、浮世絵師のなかには幕府の検閲に反発した者もいました。検閲に反発した浮世絵師の代表としては、幕府から処罰を受けた喜多川歌麿、幕府への皮肉や風刺を込めた作品を発表し続けた歌川国芳が挙げられます。

浮世絵の現代的意義・影響

クロード・モネ「ラ・ジャポネーズ」フィンセント・ファン・ゴッホ「タンギー爺さん」
クロード・モネ「ラ・ジャポネーズ」フィンセント・ファン・ゴッホ「タンギー爺さん」

江戸時代に一世を風靡した浮世絵芸術は、明治維新と共に衰退していきますが、浮世絵が現代芸術に残した意義や影響は多大なものでした。

日本での浮世絵文化が衰退したころ、19世紀後半にパリ万国博覧会で正式出品されたことをきっかけに、フランスではジャポニスムと呼ばれる日本ブームが起こります。なかでもフランス印象派の画家たちは浮世絵に夢中になり、クロード・モネやフィンセント・ファン・ゴッホは浮世絵コレクターと大量の浮世絵をコレクションしていました。

モネやゴッホの作品には、日本への憧れや浮世絵から受けた強いインスピレーションが感じられるものが多数あります。

日本国内では一度は衰退した浮世絵ですが、現在は浮世絵のデザイン性はもちろん、歴史的な資料としての価値も高く評価されています。

浮世絵は、日本の多くのアーティストに影響を与え、たとえば日本のポップカルチャーであるアニメや漫画の世界にも浮世絵の構図を見ることができます。

国内外の美術館も多くの浮世絵を収蔵しており、海外ではメトロポリタン美術館を始めとする著名な美術館が浮世絵コレクションを有しています。

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