日本の美しさを名所絵で表現した浮世絵師・歌川広重
歌川広重は、日本の江戸時代後期に活躍した浮世絵師。
歌川広重は、名所絵と呼ばれる日本の風景を描いた浮世絵の新たなジャンルを確立しました。代表作には「東海道五十三次」が挙げられます。歌川広重や東海道や富士山をはじめとする日本の風景や人々の暮らしを美しく生き生きと描き、浮世絵のパイオニアとして活躍した歌川広重は、現在も国内外で非常に高く評価されています。
歌川広重のプロフィール
1797年、歌川広重は江戸(現在の東京)で生まれました。
1811年、絵心があった広重は15歳で歌川豊広に入門、翌年には師匠と自分の名前から一文字ずつ取った「歌川広重」の名で浮世絵師としてデビューしました。浮世絵師として、役者絵や美人画から出発した歌川広重は、着実に力をつけ、その後、花鳥図などを手がけました。
1832年、名所絵「東海道五十三次」を発表。「江戸名所」など、日本の美しい風景を描いた名所絵シリーズは歌川広重の代表作となり、浮世絵の新たなジャンルを開拓しました。
葛飾北斎と並び多作で知られる歌川広重は2万点もの作品を制作したといわれ、名所絵シリーズのほか、歴史画や春画、肉筆画、団扇絵など、様々な作品にチャレンジし続けました。
1858年、歌川広重は、当時大流行していたコレラにより61歳で亡くなりました。
歌川広重の代表作・有名な作品
歌川広重「東海道五十三次」
歌川広重の代表作は、江戸時代の東海道にあった53の宿場町の様子を描いた浮世絵の連作「東海道五十三次」です。1831年から1834年にかけて刊行された「東海道五十三次」は、明るく鮮やかな色彩と簡潔な線描で、江戸時代の庶民の暮らしや文化、当時の宿場町の賑わいや旅人の様子、日本の美しい四季折々の景色の変化を生き生きと表現しています。53の宿場町それぞれの特徴が的確に描き分けられた歌川広重による名所絵の傑作「東海道五十三次」は、現在でも世界中で愛されています。
歌川広重「名所江戸百景」
「名所江戸百景」は、歌川広重が江戸の街並みや風物詩を描いた浮世絵の連作、名所絵シリーズです。1856年から1858年にかけて刊行されました。 明るく鮮やかな色彩と大胆な構図で、江戸の町に暮らす人々の暮らしや江戸の活気と賑わいを表現しています。
歌川広重 「冨二三十六景(不二三十六景)」
「富士三十六景」は、歌川広重が富士山をさまざまな角度から描いた浮世絵の連作、名所絵シリーズです。1852年に佐野屋喜兵衛より、1859年に蔦屋吉蔵より刊行されました。 「富士三十六景」には、江戸時代の東海道にあった36の景勝地が描かれており、日本の四季の移ろいの美しさと富士山のある雄大な景色、富士山を眺める旅人の姿などが、歌川広重による写実的な画風で表現されています。
歌川広重のここがすごい!作品の特徴と人気の理由
明るく鮮やかな広重の色彩
歌川広重の作品は、明るく鮮やかな色彩を多用し、作品に華やかさが演出されているのが特徴です。「ヒロシゲブルー」「ジャパンブルー」とも称される藍色の美しいグラデーションには、当時のヨーロッパから輸入された新しい顔料が使用されており、歌川広重の作品を強く印象づける効果を生み出しています。歌川広重の作品に見られる「ヒロシゲブルー」の美しさは、フランス印象派の画家に強い影響を与えました。
広重の簡潔な線描
浮世絵の作品のなかでも、特に歌川広重の作品は、より簡潔でシンプルな線描が特徴です。歌川広重の作品は、簡潔なデザインのなかに風景の形や美しさ、空気の動きまでもが表現されており、彼のシンプルな線へのこだわりが感じられます。
広重の構図の巧みさ
歌川広重は、独自の視点で捉えた構図の巧みさで、風景に奥行きや躍動感を与えました。歌川広重の名所絵シリーズは、多くの作品に遠近感や視点の工夫が施されており、歌川広重が画面全体のバランスを重視していたことが伺えます。「名所江戸百景」の「大はしあたけの夕立」や「亀戸梅屋舗」は、歌川広重の構図や遠近感のこだわりが強く見受けられる作品といえるでしょう。
このように、明るく鮮やかな色彩、簡潔な線描、構図の巧みさを生かした歌川広重の作品は、当時の江戸の人々に強いインパクトを与えました。
歌川広重に対する評価と影響力
歌川広重の日本国内での評価
江戸時代後期に活躍した歌川広重は、日本の美術史上において最も重要な浮世絵師の一人として、今もなお国内外で高い評価を得ています。
日本画の巨匠として挙げられる岡倉天心や横山大観の作品にも、歌川広重の影響が見て取れる作品があるほど、広重は後の日本美術界に絶大な影響を及ぼしました。
歌川広重が手がけた浮世絵である名所絵シリーズは、日本の美しい風景や人々の暮らしを生き生きと描き、日本の人々のノスタルジーを掻き立てます。
日本国内では、歌川広重の名所絵シリーズをオマージュした作品が多く制作されているほか、歌川広重の作品をプリントした製品やノベルティなども広く流通しており、長く愛されているキャンペーンとしては永谷園の「お茶づけ海苔」に封入された浮世絵カードを思い浮かべる方もいらっしゃるのではないでしょうか。歌川広重の作品は時代を越えて国民的な人気を博しています。
歌川広重の海外での評価
歌川広重の美しく大胆な浮世絵作品は、日本のみならず、世界中の芸術家に影響を与えました。
なかでも歌川広重の影響を強く受けているといわれるのがフランス印象派の画家たちです。「ヒロシゲブルー」と呼ばれる鮮やかな色彩や、構図の巧みさで奥行き感を演出する歌川広重の作風は、多くのフランス印象派の画家たちにインスピレーションを与えました。歌川広重の影響を受けていると言われるフランス印象派の画家には、クロード・モネ、エドガー・ドガ、フィンセント・ファン・ゴッホ、ポール・セザンヌらが挙げられます。
歌川広重の浮世絵のコレクターであったクロード・モネの初期作品には、広重の「名所江戸百景」の構図や水面の表現方法の影響が色濃く見て取れます。また、広重の瞬間的な印象を捉えた表現法は、後のクロード・モネの連作シリーズ「睡蓮」や「積みわら」などに影響を与えたと考えられています。
同じく歌川広重の浮世絵のコレクターであったフィンセント・ファン・ゴッホも、広重の「東海道五十三次」などの影響を受けている画家のひとりです。なかでも広重の名所絵シリーズ「名所江戸百景」は、ゴッホに日本への憧れと鮮烈な印象を与えたといわれており、ゴッホは「大はしあたけの夕立」と「亀戸梅屋舗」の模写作品を残しました。
このように、フランス印象派の画家たちが浮世絵に夢中になったことをきっかけに、歌川広重は世界中の人々に広く知られることになりました。歌川広重の作品は現在も世界で高い評価を受けています。
ライバル関係?広重と北斎の作風の違い
1797年生まれの歌川広重と1760年生まれの葛飾北斎は親子ほど年が離れていますが、2人はほぼ同時期に江戸で浮世絵師として活躍しました。
葛飾北斎の代表作「冨嶽三十六景」が1831年、かたや歌川広重の代表作「東海道五十三次」が1833年に発表されていることもあり、歌川広重と葛飾北斎は「浮世絵・風景画の双壁」といわれるほどのライバル関係にあったといわれています。
北斎の作風と広重の作風の違い
葛飾北斎は、広重とともに多作な画家として知られ、「富嶽三十六景」や「諸国瀧廻り」などの名所絵シリーズを残しています。その作風は、大胆な構図とダイナミックなデフォルメが特徴です。
歌川広重の名所絵シリーズは、大胆な構図の中にも落ち着いた雰囲気の風景、細やかに表現された人々の暮らしなど、情緒が感じられる作品が多いことから、広重と北斎の作風の違いが見て取れます。
このような2人の作風の違いから、歌川広重を自然主義、北斎を表現主義と表現する評論家もいます。広重も北斎も日本の美術史に欠かせない重要な浮世絵師であり、今もなお高く評価されています。
北斎をライバル視していた広重
40歳近く年の離れた歌川広重と葛飾北斎ですが、歌川広重は、ことあるごとに先輩浮世絵師である葛飾北斎を意識していたようです。
四代目広重によると、晩年の歌川広重は、絵の批評に関して「北斎っぽい」「北斎っぽくない」を判断の基準にしていたと言います。また、歌川広重の絵本「富士見百図」の自序においても、葛飾北斎の作品について「絵組のおもしろさをもっぱらとし、富士はそのあしらいにいたるも多し」と、北斎の作品の構図についてチクリと釘を刺しています。
当時の世間は、葛飾北斎よりも歌川広重を評価していたようですが、当の歌川広重本人は、葛飾北斎に対して熱いライバル心を燃やしていたのかもしれません。
二人が互いに切磋琢磨し、浮世絵の新たな表現を追求し続けたことで、浮世絵の芸術性は発展していきました。
歌川広重の紹介まとめ
歌川広重の名所絵シリーズは、東海道や富士山など日本の名所、当時の日本の人々の暮らしや文化を「ヒロシゲブルー」といった明るく鮮やかな色彩と巧みな構図で描き出しました。歌川広重の浮世絵はフランス印象派を中心に大ブームとなり、広重の浮世絵や日本の美しい風景は世界から評価されることになりました。
歌川広重は、日本のみならず、世界中で高く評価されています。特に、印象派の画家に大きな影響を与えたことで知られており、日本の浮世絵が世界に広まるきっかけとなりました。